2019年9月12日木曜日

神田橋條治先生の著書 『不確かさの中を』

 神田橋條治先生の本は一行一行凝縮された文章で、なかなか心を据えて読まないと読み続けられないのですが、東京から鹿児島まで神田橋先生の診察を受けている患者さんが読まれていた『不確かさの中を』を目にして、これなら電車でも読めると思いkindle版で購入してみました。臨床心理士の滝口俊子先生との対談です。そのなかでこんなちょっと耳の痛いことが語られています。関心があればみなさんにも読んでいただきたく、引用させていただきました。

「・・・いろいろなものが織り成している一つの組織体のある部分だけに治療者が強く関心を向けるというのは、アマチュアなの。アマチュアには責任がない。興味や関心でやってもいいけれど、やっぱり治療者というのは、その組織全体を見るようにしなければ。・・・
全体を見ないで部分をいじるから。その部分については正しくても、変化をホールドしていく常識部分とか環境とか、そういう大きなところを放っぽり出してやると、めちゃくちゃになってしまうだよね。・・・無意識に興味を持っていろいろいじったり、それに関心を向けたりすると、必ず事柄がわき立ってくる。それをもう一度整えていくのは、セラピストではなくてクライエントの自我がやるんだ、と言うのではね(無責任でしょ)。もちろんそれは、やれるかどうか見極めさえあればいいわけだけど、見極めがなければ、もう何が何だか収集がつかなくなってしまうことがある。僕は、自分が若い頃、ずっとそうやってきたから、よくわかるよ。」(222-225p)

 本の前半では、神田橋先生が精神科医として診察を始めたころ、患者さんがみんな状態が悪くなっていったことを書かれていて、指導教官にたいへん迷惑をかけていたことを話されているんです。赤裸々に自分がアマチュアでったあったこと認めているようなもので、偉ぶって言っているわけでもなく、若い先生達の励ましにもなっているような気がします。

 病気そのものだけに焦点を合わすことなく、その人なりと背景にあるものを包むように、過去から今、そして未来へと生きて行くための勇気を与える、患者と家族とで雑談を交わしながらの診察風景が想像されてきます。

 ひるがえって私たちの徒手療法を省みたとき、部分と身体全体の調和をそのときどきの施術のなかでめざしているところでもありますが、時間的なところもあり、どうしても部分な問題解決(痛みの解消)にこだわってしまいます。

 部分と全体は長年試行錯誤しながらの課題でもあり続けています。これは神田橋先生やカウンセラーにとっても、診察時間をいかに効果的に短くできるかという課題でもあったらしく、行き着いたところは、全てがフラクタクルであり部分が全体を、全体が部分を包含しているという考え方になったようです。ぜひ、読んでいただきたいところですが、神田橋先生の真骨頂とも言うべきところを短く引用させていただきます。

 「患者の置かれている状況や背負っている歴史から患者の精神状態を説明するやり方はあまりにも辻褄が合うので、これは作りものと直感した。・・・現症を観察するだけで、そこに影さしている状況や歴史を読み取れる筈であり、それができない。・・・

 僕はその後、僅か数十分の心理療法が患者の生活全体や人生全体に影響を及ぼすのも、面接時間という小部分の中に全体が含まれており、我々は部分に含まれている全体に働きかけていることがあるだろうと考えるようになった。患者の生活全体や人生全体に思いを馳せながら患者に接しているときには、我々の底に流れている真なるものと響き合うのだろうと思うようになった。さらに、面接の一瞬という部分に面接時間全体が含まれることも可能であろうと考えるようになった。・・」(70p)

 私たちの徒手療法でもこうしたことが可能でしょうか。機能神経学的では1例として、脳の全体的な神経活動を眼球運動のように部分的なところから脳を活性化させることが試みられています。リハビリテーションの世界では、身体の運動によって脳の活動が変わってゆくことが確かめられていますので、機能神経学的にも中枢神経系にインパクトな刺激となる方法がこれからも見いだされてゆくでしょう。私個人的には、嚥下の仕方で脳の活性化される部位が異なることがfMRIで示されていますので、嚥下運動も有力な刺激方法になると確かめています。

 私自身の身体呼吸療法でも、患者さんに触れる瞬間、底に流れている真なるものと響き合う施術のあり方を求めてゆかねばと考えさせられたしだいです。本当に神田橋條治先生はすごい先生なんだなあと感じさせられました。
 電車の中で気楽に読める本として、次に、作業療法士の岩永竜一郎先生との対談「発達障害は治りますか?;治らないという考え方は治りませんか?」を手にしましています。楽しみです。